「あの人に辞められたら、正直困るんです。」
中小企業の経営者と話をしていると、こうした言葉を聞くことがあります。
会社の売上の多くを担っている営業社員。
重要顧客との関係を一手に引き受けている担当者。
複雑な業務を長年担当し、その人にしか分からない仕事を抱えているベテラン社員。
経営者から見れば、まさにエースです。
実績がある。経験もある。顧客からも信頼されている。
だから多少問題があっても、強く言えない。
会議に出なくても仕方がない。
情報共有が不十分でも目をつぶる。
後輩を育てなくても、本人が数字を上げているから許される。
新しい方針に従わなくても、「あの人にはあの人のやり方がある」と扱われる。
こうして、会社の中に「特別な人」が生まれていきます。
一見すると、その会社には優秀な人材がいるように見えます。
しかし私は、エース社員に辞められたら困る会社ほど、組織としては弱い可能性があると考えています。
問題は、エース社員がいることではありません。
エース社員がいなければ成り立たない会社になっていることです。
エース社員と属人化は、似ているようで違う
優秀な社員がいること自体は、会社にとって大きな財産です。
顧客理解が深い。
難しい案件をまとめられる。
社内外から信頼されている。
結果を出し続けている。
こうした人材は、本来であれば会社の成長を牽引する存在です。
しかし、その優秀さが組織に還元されず、個人の中だけに蓄積されている場合、事情は変わります。
顧客情報を本人しか知らない。
案件の進め方が本人の頭の中にしかない。
交渉の経緯が記録されていない。
後輩にノウハウを教えない。
本人が休むと仕事が止まる。
これは人材力というより、属人化です。
エース社員がいる会社と、エース社員に依存している会社は違います。
前者は、その人の力によって組織全体が強くなっています。
後者は、その人の存在によって組織の弱さが隠されています。
この違いは、平時には見えにくいものです。
本人が毎日出社し、案件を回し、売上を作っている間は、問題がないように見えるからです。
しかし、退職、病気、異動、顧客とのトラブルなど、何か一つ起きた瞬間に弱さが露呈します。
つまり属人化とは、目に見えない経営リスクなのです。
「辞められたら困る」が、経営判断を歪める
エース社員への依存が深まると、経営者の判断は徐々に歪んでいきます。
本来であれば注意すべき行動を注意できない。
会社方針に従わなくても容認する。
評価を下げるべき場面で下げられない。
役割変更をしたくてもできない。
なぜなら、辞められるのが怖いからです。
経営者の頭の中には、常に次の不安があります。
「あの人が辞めたら、売上が落ちる。」
「顧客も一緒に持っていかれるかもしれない。」
「現場が回らなくなる。」
「代わりを採用できない。」
この不安が強くなるほど、経営者は本人に対して忖度します。
そして、その忖度は本人にも伝わります。
「自分がいなければ、この会社は困る。」
そう感じた社員は、意図的であれ無意識であれ、経営者との力関係を読み始めます。
会社のルールより、自分のやり方を優先する。
情報を抱え込む。
後継者を育てない。
自分の価値を高めるために、仕事を複雑なままにしておく。
もちろん、すべてのエース社員がそうなるわけではありません。
しかし、組織が一人に依存する構造を放置すれば、そのような行動を誘発しやすくなるのは事実です。
重要なのは、本人の人格を責めることではありません。
人が権力を持ちすぎる構造を、会社が作ってしまっていることです。
会社にとって最も危険なのは、退職そのものではない
経営者は「辞められること」を最大のリスクだと考えます。
しかし、本当に怖いのは退職そのものではありません。
より深刻なのは、辞めるかもしれない一人に配慮し続けることで、他の社員の信頼を失うことです。
周囲の社員は、よく見ています。
エース社員だけがルールを守らなくても許される。
情報共有をしなくても問題にされない。
会議で協力的でなくても、数字さえ上げれば評価される。
後輩に厳しく当たっても、顧客を持っているから何も言われない。
そのような状態が続けば、真面目に会社の方針に従っている社員はどう感じるでしょうか。
「結局、数字さえ持っていれば何をしてもいい。」
「会社は公平ではない。」
「社長は強い人には何も言えない。」
この認識が広がると、会社の求心力は急速に低下します。
そして皮肉なことに、最初に辞めていくのは、問題のあるエース社員ではないかもしれません。
将来性のある若手。
協調性のある中堅。
ルールを守り、周囲を支えている社員。
そうした人から会社を見限っていきます。
経営者が一人の退職を恐れた結果、複数の優秀な社員を失う。
これが、エース社員への過度な依存がもたらす最も大きな代償です。
エース社員が優秀なのか、会社が弱いだけなのか
ここで、少し厳しい問いを立ててみます。
その社員が本当に優秀なのか。
それとも、会社の仕組みが弱いために、その人が相対的に優秀に見えているだけなのか。
例えば、重要顧客との関係を一人で握っている社員がいるとします。
経営者から見れば、「この顧客はあの人にしか任せられない」と思うでしょう。
しかし、その背景をよく見ると、
顧客との商談記録が残っていない。
契約までの経緯が共有されていない。
顧客のキーパーソンを他の社員が知らない。
提案資料も本人のパソコンにしかない。
後任候補を同行させていない。
ということがあります。
この状態で、「あの人にしかできない」と評価するのは少し違います。
会社が引き継げる状態を作ってこなかっただけかもしれません。
その社員は優秀かもしれない。
しかし、その優秀さを会社の資産に変換できていない。
これは経営の課題です。
本当に優秀な社員とは、自分だけで結果を出す人ではありません。
自分がいなくても成果が再現される状態をつくれる人です。
顧客情報を共有する。
後輩を育てる。
案件の進め方を標準化する。
自分の経験を言語化する。
周囲が成果を出せるようにする。
ここまでできて初めて、その人の力は個人の能力から組織の能力へ変わります。
経営者がやるべきことは、エースを弱くすることではない
属人化を問題視すると、「エース社員の権限を奪うべきだ」という話になりがちです。
しかし、それでは本質を外します。
必要なのは、エース社員を弱くすることではありません。
エース社員の強さを、会社全体の強さに変えることです。
そのためには、まず情報の帰属を明確にする必要があります。
顧客情報は個人のものではなく、会社のものです。
商談記録、契約経緯、提案内容、顧客課題、キーパーソンとの関係性。
これらを記録し、共有できる状態にする。
次に、複数担当制を進めます。
重要顧客ほど、一人だけに任せない。
若手や他部署の社員を同席させる。
顧客との接点を複数にする。
これは社員を信用していないからではありません。
会社として顧客に責任を持つためです。
さらに、エース社員の評価項目を変える必要があります。
個人売上だけではなく、
後輩を育てたか。
情報を共有したか。
ノウハウを標準化したか。
チーム全体の成果に貢献したか。
自分が不在でも回る仕組みを作ったか。
こうした項目を評価に組み込む。
つまり、「自分にしかできない状態」を高く評価するのではなく、自分がいなくても回る状態をつくったことを評価するのです。
「代わりをつくること」は、本人への裏切りではない
経営者の中には、エース社員の代わりを育てることに後ろめたさを感じる人もいます。
「本人を信用していないと思われるのではないか。」
「辞めさせる準備をしているように見えるのではないか。」
しかし、代替可能性を高めることは、本人への裏切りではありません。
むしろ健全な組織運営です。
会社が一人に依存している状態は、本人にとっても重荷になります。
休めない。
常に連絡が来る。
難しい案件が集中する。
自分が抱えなければ回らない。
周囲からも距離を置かれる。
属人化は、権力を与える一方で、その人を仕事に縛りつけます。
だから、業務を分担し、後継者を育て、情報を共有することは、本人を自由にすることでもあります。
本当に会社に貢献しているエース社員であれば、自分のノウハウが組織に広がることを歓迎するはずです。
反対に、共有や育成を極端に拒むのであれば、そこには自分の優位性を守りたい意識があるかもしれません。
そのとき経営者は、見て見ぬふりをしてはいけません。
辞められる前提で経営する
人は、いつか辞めます。
定年もあります。
家庭の事情もあります。
病気や転居もあります。
独立したいということもあるでしょう。
どれだけ良い会社でも、誰かが永遠に働き続ける保証はありません。
だから経営者は、
「辞めないように囲い込む」
のではなく、
「いつ辞めても会社が回るようにする」
必要があります。
これは冷たい経営ではありません。
会社と社員を適切に分けて考える経営です。
社員を大切にすることと、社員に依存することは違います。
感謝することと、忖度することも違います。
活躍してもらうことと、権力を集中させることも違います。
優秀な社員には、十分に報いる。
重要な役割を任せる。
成長機会も提供する。
一方で、会社として必要な情報共有や後継者育成は求める。
その線引きが必要です。
経営者への処方箋――三つの問いを持つ
エース社員への依存を感じている経営者は、まず次の三つを確認するとよいと思います。
一つ目は、
その人が明日から一か月休んでも、会社は回るか。
回らないのであれば、どこで止まるのか。
顧客対応か。
見積もりか。
交渉か。
承認か。
まずは止まる場所を特定します。
二つ目は、
その人の知識や顧客情報は、会社に残っているか。
個人の記憶、メール、手帳、パソコンにしか存在しないなら、それは会社の資産になっていません。
三つ目は、
その人が組織を強くしているか、それとも依存を深めているか。
後輩が育っている。
仕事が共有されている。
チーム全体の成果が上がっている。
そうであれば、本当の意味でのエースです。
反対に、本人だけが成果を上げ、周囲が育たず、本人不在で仕事が止まるのであれば、それは危険な属人化です。
この三つの問いに正面から向き合うことが、最初の一歩です。
強い会社とは、エースがいない会社ではない
誤解してはいけないのは、強い会社にはエース社員が不要だということではありません。
むしろ、強い会社ほど優秀な人材を大切にします。
ただし、その人の能力を個人に閉じ込めません。
仕組みに変える。
人に伝える。
標準にする。
次の人を育てる。
優秀な人が一人いることで、周囲の人も優秀になっていく。
それが強い会社です。
一方、弱い会社では、優秀な人が一人いることで、周囲がますますその人に依存します。
結果として、その人が強くなればなるほど、会社は弱くなっていきます。
ここに大きな逆説があります。
エース社員に辞められたら困る会社は、エース社員を大切にしているようで、実はその人の力を会社の力に変えられていません。
そして経営者自身も、「辞められたら困る」という恐怖によって、必要な判断ができなくなっています。
本当に目指すべきなのは、
「辞められても困らない会社」
ではありません。
誰かが辞めても揺らがず、誰かが入ればさらに強くなる会社です。
そのためには、個人の成果だけを称賛するのではなく、組織に何を残したかを評価する必要があります。
顧客を残したか。
人を育てたか。
仕組みを残したか。
知恵を共有したか。
次のエースをつくったか。
エース社員の本当の価値は、自分がいなければ困る状態をつくることではありません。
自分がいなくても回るほど、組織を強くすることにある。
そして、それを求め、評価し、仕組みにすることこそ、経営者の仕事なのだと思います。
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