ある食品加工会社の社長と、決算書を見ながら話をしていたときのことです。
原材料価格の上昇によって、会社の粗利率は少しずつ下がっていました。
一時的な変動ではありません。このまま何もしなければ、いずれ営業利益は赤字になる。数字を追えば、かなり明確な状況でした。
私は社長に、値上げが必要であることを説明しました。
社長も反論しませんでした。
「先生の言う通りだと思います。値上げしないといけないというのは、実はずっと分かっていたんです」
私はその言葉を聞いて、少し安心しました。
数字も理解してもらった。必要な打ち手についても認識は一致している。
これで会社は動くだろう。
そう思っていました。
ところが、半年後。
値上げは実行されていませんでした。
「分かっているのに、できない」
改めて社長に尋ねました。
値上げが必要だと分かっている。それなのに、なぜ動かなかったのでしょうか、と。
社長はしばらく考えた後、こんな話をしてくれました。
頭では必要だと分かっている。
しかし、いざ取引先へ電話をしようとすると手が止まる。
値上げを伝えて嫌な顔をされたらどうしよう。取引を減らされたらどうしよう。最悪の場合、取引そのものを切られたらどうしよう。
そんなことを考えているうちに、電話をかけられなくなってしまう。
この話を聞いたとき、私は少なからず衝撃を受けました。
なぜなら、私はそれまで、財務の専門家としてある前提を無意識に持っていたからです。
正しい数字を示し、正しい改善策を説明すれば、経営者は合理的に判断して動く。
公認会計士として学んできたことも、コンサルタントとして磨いてきたことも、その多くは「正しい答えを出すための技術」でした。
決算書を分析する。問題点を特定する。将来をシミュレーションする。そして改善策を提示する。
だから、経営者が動かなければ、「分析がまだ足りないのではないか」と考えました。
もっと詳細に分析しよう。
もっと分かりやすいグラフを作ろう。
もっと精緻なシミュレーションを提示しよう。
しかし、精度を上げても、同じことが起きました。
経営者は「なるほど」と言います。
「よく分かりました」とも言います。
それでも、数カ月後に訪問すると、何も変わっていない。
この経験を何度も繰り返すうちに、ようやく一つのことに気づきました。
問題は、数字の正確さではなかったのです。
正解と行動の間には、思った以上に深い溝がある
値上げをした方がいい。
固定費を見直した方がいい。
資金繰りを管理した方がいい。
不採算の商品や事業を見直した方がいい。
こうしたことを、まったく知らない経営者はそれほど多くありません。
むしろ実際の経営現場では、
「分かっているんですけどね」
という言葉をよく耳にします。
ここに、経営改善を考えるうえで非常に重要な問題があると思っています。
「知っていること」と「実際にできること」は、同じではありません。
考えてみれば、これは経営に限った話ではありません。
運動した方がいいことは分かっている。
食べ過ぎない方がいいことも分かっている。
早く寝た方が翌日の仕事の生産性が上がることも分かっている。
それでも、私たちは必ずしもその通りには行動しません。
ところが財務や経営の世界では、不思議なことに「正しい情報を与えれば人は動く」という前提が、今なおかなり強く残っているように思います。
だから経営がうまくいかないと、さらに詳しい資料を作る。
さらにKPIを増やす。
さらに精緻な予算を作る。
もちろん、数字は重要です。
私は財務を専門としているからこそ、その価値を否定するつもりはまったくありません。
数字がなければ、経営者は自分の感覚だけで判断することになります。
ただ、ここには一つ大きな落とし穴があります。
数字は方向を示してくれますが、それだけでは人を動かしてくれない。
どれほど正確な地図を持っていても、実際に歩き出さなければ目的地には着きません。
AIによって「正しい答え」はますます増えていく
そして、この問題はこれからさらに重要になるのではないかと考えています。
理由はAIです。
AIによって、経営者が手にできる情報や分析の量は、これからますます増えていくでしょう。
これまで専門家に依頼しなければ難しかった分析も、かなりの部分をAIが支援できるようになります。
大量のデータから異常値を見つける。
業績の変化を分析する。
複数のシナリオを比較する。
改善策の候補を挙げる。
そうした「答えを出す仕事」のコストは、今後大きく下がっていくはずです。
これは経営にとって、とても大きな進歩です。
しかし同時に、私は少し違うことも考えています。
正しい答えを簡単に得られるようになったとき、会社は本当に今より動けるようになるのでしょうか。
AIから、
「この商品は採算が悪いので、価格を10%引き上げるべきです」
と極めて正確な分析結果を提示されたとしても、取引先へ値上げの電話をかけるのは、結局、人間です。
「この事業から撤退した方が企業価値は高まります」と分析されても、長年その事業を支えてきた社員に撤退を伝えるのは、人間です。
数字の問題が解決すればするほど、最後に残るのは、人間の問題なのかもしれません。
そう考えると、AI時代の経営で希少になる能力も少し違って見えてきます。
これまでは、
「正しい答えを出す力」
が専門家や経営者にとって重要でした。
しかしこれからは、
「正しい答えを、実際の行動に変える力」
の重要性が、相対的に高まっていくのではないでしょうか。
財務を「情報」ではなく「行動」のために使う
こうした問題意識から、私は「行動財務」という考え方を整理するようになりました。
行動財務とは、財務の数字を単に「情報として眺める」のではなく、行動を起こすために使い、その行動を通じて財務数値を改善していこうという考え方です。
私自身、以前は専門家として「正しい答えを出すこと」にかなり意識が向いていました。
しかし今は少し違います。
どれほど精緻な分析をしても、経営者が動かなければ、会社の数字は一円も変わりません。
逆に、分析としては多少粗くても、経営者が一歩動き、その結果を見ながら次の一歩を修正できれば、会社は少しずつ変わっていきます。
専門家として本当に目指すべきなのは、「正しいことを言った」という状態ではなく、クライアントの会社が実際に良くなったという状態なのだと思うようになりました。
これは専門家だけの話ではありません。
経営者自身についても同じです。
経営とは、正解を当て続ける仕事ではないのかもしれません。
仮説を立て、動いてみる。
結果を見る。
違っていれば修正する。
そして、また動く。
そう考えると、良い経営者とは「いつも正しい経営者」ではなく、「動きながら修正できる経営者」なのではないでしょうか。
この連載では、拙著『正確な数字ほど社長を動かさない』で提唱した「行動財務」を起点に、財務だけに限らず、経営、人間心理、組織、そしてAIなども交えながら、
「人と会社は、どうすれば動くのか」
という問いを考えていきたいと思います。
最後に、一つだけ問いを置いて、今回のコラムを終わります。
あなたの会社に、
「何をすべきかは分かっている。でも、なぜか半年以上動いていないこと」
はないでしょうか。
もし思い当たるものがあるなら、もう一度「正しい答え」を探す前に、
「自分は、なぜこれをやっていないのだろう」
と考えてみる。
そこに、数字だけを眺めていても見えてこない、経営改善の入口があるかもしれません。
次回:「分かっています」と言う社長ほど、実は危ない
経営者の方と話をしていると、よく耳にする言葉があります。
「それは分かっています」
一見すると、何の問題もない言葉です。課題を理解しているのであれば、あとは実行すればいい。私自身も、以前はそう考えていました。
しかし、現場で多くの経営者と接しているうちに、むしろこの「分かっています」という言葉の中に、経営改善を止める大きな落とし穴があるのではないか、と考えるようになりました。
なぜ、人は「分かっている」のに動けないのでしょうか。
そして、「分かる」ことと「できる」ことの間には、いったい何があるのでしょうか。
次回は、経営における「知っている」と「できる」の間にある深い溝について考えてみたいと思います。
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