「利益が出てから還元すべきか。それとも、先に還元して人を確保すべきか。」
中小企業経営者と対話していると、この問いに必ず行き当たります。採用市場は売り手優位が常態化し、待遇改善を掲げなければ応募すら集まらない。一方で、利益水準は決して盤石ではなく、固定費を増やすことへの恐怖も現実的です。「無い袖は振れない」という感覚は、決して消極姿勢ではなく、経営者としての健全な警戒心でもあります。
しかし、この問いを「理念」や「気合い」で語っても、経営判断の助けにはなりません。重要なのは、感情ではなく、財務的な物差しで分解することです。
1.論点の本質は「固定費化リスク」にある
社員還元の多くは、基本給の引上げや手当の恒久化など、固定費の増加を伴います。固定費は、一度上げると下げにくい。業績が悪化しても自動的に減らない。ここに最大のリスクがあります。
財務的に言えば、固定費増加は「損益分岐点売上高」を押し上げます。例えば年間1,000万円の人件費増加は、そのまま損益分岐点を1,000万円押し上げるわけではありません。粗利率が30%であれば、必要売上増加は約3,300万円です。つまり、「年1,000万円の賃上げ」は「年3,300万円の追加売上」を意味します。
この構造を直視せずに「人材確保のために必要だ」という抽象論で意思決定すれば、資金繰りは確実に悪化します。したがって第一の物差しは、「固定費増加に見合う売上増加の現実性」です。
問いはこう変わります。
「この人件費増加は、どの売上で回収するのか。その売上は、いつ、どの確率で実現するのか。」
ここまで具体化して初めて、経営判断になります。
2.「利益が先か」という問いの再定義
多くの経営者は、「利益が出てから還元すべきだ」と考えます。しかし、この“利益”の定義が曖昧なことが多い。
単年度黒字であればよいのか。営業利益率何%を超えたらか。あるいは、フリーキャッシュフローが安定してからか。
私は、判断基準を「営業利益率」と「実質無借金耐性」の二軸で考えることを提案しています。
①営業利益率
少なくとも同業平均、もしくは5%以上を安定的に確保できているか。営業利益率が1〜2%で推移している企業が固定費を増やすのは、極めて危険です。外部環境変化に耐えられません。
②実質無借金耐性
借入残高ではなく、「月商何ヶ月分の現預金を保有しているか」。最低でも月商3ヶ月、理想は6ヶ月分の手元資金があるかどうか。固定費増加後もこの水準を維持できるかを試算することが重要です。
この二つを満たしていない場合、原則として恒久的な固定費増加は慎重であるべきです。
3.「社員還元が先」になるケース
では、社員還元を先行させることが合理的なケースはないのか。あります。
それは、「人材不足がボトルネックとなり、売上拡大が物理的に止まっている場合」です。
例えば、受注はあるが人が足りず断っている。残業過多で離職リスクが高い。特定スキル人材がいないため高付加価値案件を受けられない。このような場合、人件費は“コスト”ではなく“投資”になります。
ただし、ここでも条件があります。
・受注の裏付けがあるか(見込み客ではなく、具体的な案件)
・価格転嫁が可能か
・採用後3〜6ヶ月で戦力化できるか
つまり、「人件費増加→売上増加」までの時間差を資金で耐えられるかどうかです。
ここで重要なのがキャッシュフローシミュレーションです。月次ベースで、固定費増加後の資金残高推移を最低12ヶ月分描く。楽観・標準・悲観の3パターンを作る。これをやらずに「大丈夫だろう」は禁物です。
4.固定費増加に対するリスクヘッジ策
固定費増加を決断する場合、必ず同時にリスクヘッジを設計すべきです。
①変動費化の工夫
基本給ではなく業績連動賞与の比率を高める。固定手当ではなく、成果に応じたインセンティブ設計にする。固定費を完全に増やすのではなく、一部を変動費化することで損益分岐点上昇を抑えます。
②価格改定の先行実施
人件費増加前に、可能な限り価格改定を実施する。値上げなき賃上げは、財務的には自殺行為に近い。顧客との関係性を再定義し、「価格を上げられる会社」へ体質転換することが前提条件です。
③借入枠の確保
実際に借りるかどうかとは別に、コミットメントラインや追加融資枠を確保しておく。資金ショートは「不足」ではなく「想定不足」で起きます。防火壁を先に築くことです。
④段階的実施
一度に全社員の基本給を引き上げるのではなく、段階的に行う。まずはキーポジションから、あるいは新規採用者のみ市場水準へ合わせるなど、時間分散も重要なヘッジです。
5.最終的な判断軸は「再現性」
利益が先か、還元が先か。この問いの答えは一律ではありません。
しかし、共通する判断軸は「再現性」です。
・この利益は一過性ではないか
・この売上は再現できるか
・この人件費は将来も賄い続けられるか
再現性が確認できないうちに固定費を増やすのは、経営というより賭けに近い。
一方で、再現性のあるビジネスモデルが見えているなら、還元を先行させることはむしろ合理的です。優秀な人材を確保できるかどうかが競争優位を決める時代において、過度な内部留保主義もまた機会損失です。
6.経営者に問われていること
結局のところ、この問題は「財務の読み解き力」に帰着します。感覚ではなく、数値で構造を理解しているか。固定費1円の重みを実感しているか。損益分岐点を毎月把握しているか。
社員還元は理念の問題ではありません。資金繰りと損益構造の問題です。
利益と還元は対立概念ではなく、順番と設計の問題です。財務的裏付けを持った還元は、企業の持続性を高めます。裏付けなき還元は、組織全体を不安定にします。
経営とは、「善意」を「構造」に変換する作業です。
社員を大切にしたいという思いを、どのような財務設計で実装するか。そこにこそ、経営者の力量が問われているのだと思います。


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