「あなたに会えてよかった」「この人のためなら、と思えた」
そんな瞬間に、私たちは何か計算できないエネルギーを感じます。合理やロジックでは割り切れない、しかし確かに存在する“感情”という力。それが、人間ならではの価値であり、そしてこれからの時代にこそ際立たせるべき力ではないかと、私は考えています。
AIファーストの時代に、私たちは何を失い、何を得るのか
ChatGPTをはじめとした生成AIの発展は、知識労働の構造を根底から変えようとしています。会話も、文書作成も、プログラミングも、瞬時にこなすAI。ビジネスの世界では、生産性の向上・コスト削減・24時間稼働といった効率化の恩恵が注目されがちですが、同時に私たち人間の存在意義が問われ始めています。
「人間にしかできない仕事とは何か?」という問いは、これからの時代を生きる私たちにとって極めて重要なテーマです。答えの一つとして、「創造性」や「倫理的判断力」が挙げられることが多いですが、私はそこにもう一つ、「感情」という人間特有の力を加えるべきだと考えています。
なぜなら、感情こそが人間の行動の根源であり、人間同士の信頼や共感、熱意を生み出すエンジンだからです。
「感情労働」の再定義:見えない価値創出の力
「感情労働(Emotional Labor)」という言葉は、もともと社会学者アーリー・ホックシールドが提唱した概念です。接客や介護、看護、教育といった「人と人が関わる仕事」において、自らの感情をコントロールし、顧客や対象者の感情に働きかけること——この「感情のやり取り」を労働と見なしたものです。
しかし、この言葉はどちらかというと「心がすり減る仕事」「報われにくい負担」というネガティブなイメージで語られることが多いのが現状です。
私はここで、「感情労働」をもう一歩進めて捉え直したいのです。
“人間の感情が介在することでこそ生まれる、構造的かつ持続的な価値創出のメカニズム”として、「感情労働」を再定義できないかと。
たとえば、ある飲食店で、接客スタッフが顧客の気持ちを先回りして察し、適切なタイミングで笑顔を交えた対応をする。結果として顧客満足度が高まり、リピーターが増え、口コミで評判が広がる。この一連の価値創出は、マニュアルやテクノロジーだけでは再現できない“感情の運用”によって成り立っています。
つまり、感情労働は「目に見えない差別化の源泉」であり、「長期的な関係性資産の構築装置」なのです。
感情というインターフェースが生む信頼と動機
企業活動において、顧客や社員、取引先との関係性の中で最も重要なものは何か。それは「信頼」であり、「共感」であり、「熱意」です。これらはすべて、ロジックではなく“感情”の領域にあります。
マーケティングの世界では「顧客体験(CX)」が重視され、人材マネジメントでは「エンゲージメント」が注目されます。いずれも、単なる機能的な価値提供ではなく、「どのような感情が生まれるか」が評価基準になってきています。
このような時代において、単に合理的に正しいことをするだけでは不十分です。むしろ、「なぜそれをするのか」「誰のためにやるのか」「どんな思いで取り組んでいるのか」といった“感情の背景”が、行動の納得感や支持を生む要素になっています。
たとえば、社員が自律的に動く組織を作りたいなら、合理的なKPI管理だけでなく、「この会社にいる意味」「自分の仕事が誰にどう役立っているか」を“感情的に”理解できるようにする必要があります。そこに、リーダーの感情労働——すなわち「共感し、励まし、導く力」が求められるのです。
感情労働は「再現可能な価値創出スキル」になり得るか
ここで重要なのは、「感情は属人的で再現性がない」と切り捨ててしまわないことです。確かに、感情は個別性が強く、測定や可視化が難しいものです。しかし、感情を扱う力——つまり感情労働を“スキル”として認識し、育成し、仕組みに組み込むことは可能だと私は考えています。
実際に、優れたカスタマーサクセス担当者や営業パーソン、あるいは現場のマネージャーは、相手の感情に敏感で、適切な感情表現によって関係を前進させる力を持っています。
それは「偶然の才能」ではなく、意識的な訓練と内省によって磨かれている部分も大きいのです。
つまり、「感情労働」は、再現可能な戦略的スキルセットとして捉えることができます。
- 傾聴力
- 感情のラベリング(言語化)
- 共感と境界線のバランス
- 状況に応じた感情表現の切り替え
こうした能力は、個人の成長にも、組織の競争力にもつながる普遍的な資産です。
中小企業経営における「感情労働」の戦略的活用
中小企業の経営者にとって、この「感情労働」の視点は極めて実用的です。
中小企業は、大企業に比べてリソースや知名度で劣ることが多い。しかし、「人と人との距離が近い」ことは圧倒的な強みです。この距離の近さを活かし、「感情のやり取り」が生む価値を経営戦略の中に組み込むことで、差別化と持続的成長の道を拓くことができます。
たとえば:
- 顧客との深い関係構築(顧客ロイヤルティの向上)
- 社員の主体性とエンゲージメントの強化
- 地域との共感ベースのブランドづくり
これらはいずれも、「感情」という目に見えない資源を、いかに価値に転換するかという問いに行き着きます。
終わりに:感情を「投資」する時代へ
AIがあらゆる知的作業を代替し始める今だからこそ、「感情を扱う力」こそが、人間の普遍的な価値として再評価されるべきです。
そして、感情は一過性のものではなく、「人に与え、循環させ、価値に変える」ことができる資源であり、未来への投資対象でもあります。
私たちがどんな想いで働き、誰とどんな感情を共有し、何に心を動かされるか。その積み重ねが、AIではつくれない「人間らしい組織」「共感でつながる社会」を形づくっていくのだと信じています。


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